2016年11月7日月曜日

石清水八幡宮


2015/6/12
「石清水八幡宮の宮司は八咫烏か」  
現在の宮司は?~ハレとケのけじめを守りたい
http://souda-kyoto.jp/knowledge/kyoto_person/vol34.html
貞観元年(859)、行教和尚が宇佐八幡宮の八幡様を勧請して創建したのが、「やわたのはちまんさん」こと石清水八幡宮です。
京の都の裏鬼門を護る国家鎮護の社として広く信仰されてきました。
はちまんさんのある男山は木津川、宇治川、桂川の三川が合流し淀川となる水運の要衝で、数々の戦火をくぐってきました。
美しい八幡造りの本殿は、今も変わらぬ姿を見せています。
そんな石清水八幡宮の宮司・田中恆清さんにその歴史や魅力をお聞きしました。
『日本人は「ハレ」と「ケ」の区別、「けじめ」をつけてきました。
例えばお正月の初詣はハレ。
年中行事に加えて、人生における多くの通過儀礼を「ハレ」として大切に伝え守ってきました。
神社の役割の一つはこれらの「ハレ」の舞台である、ということです。
「けじめ」を大切に、人々が集まる場所としての神社を次世代に継承してゆきたいと思います』と。
ここの宮司が八咫烏である可能性は否定できない
管理人注:ハレとケの概念
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2917
ハレとケの概念は、円環的時間論に基づいている。
円環的時間論というのは、世界は始まるが、一定期間が経ったら崩壊し、再び再生するという、時間が同心円を螺旋状のように回る世界観である。
そこには本質的な「進歩」や「発展」はない。
これに対するのが直線的時間論である。
世界は一度始まったら、もう元には戻らず、絶えず変化していき、最後は崩壊を迎えて終わるという、一回限りの一本の時間軸が延びた世界観である。
現代に棲む私たちが後者の時間論の呪縛にあることは言うまでもない。
この世界観は、実はやや特殊なものであり、ユダヤ-キリスト教の世界観(神による世界創造~終末と審判)に基づくものである。
管理人注:神による終末と審判ではなくこれを熱力学の第二法則と呼びます。
第一法則と第二法則の違いは?
http://d.hatena.ne.jp/rikunora/20101201
専制君主制は必ず滅びる
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2913
一つの文明はスタートして1200年後には崩壊を迎えるのである。
これはヨハネの黙示録の1260日,ダニエル書の一時期,二時期,半時期に匹敵するものであろう。
つまり歴史とは一つの生命現象なのです。
さてはてメモ帳
http://blog.goo.ne.jp/beingtt
蛮族戦闘団体と文明
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/155.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/156.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/157.html
田布施システムって何のこと?
http://mimirappa.seesaa.net/article/306725432.html

ハムレットの水車小屋
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/993.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/43.html
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3287
http://www.iwashimizu.or.jp/about/
http://8550.teacup.com/shig/bbs/590




石清水八幡宮
N 34°52'46.8336"  E 135°42'0.1764"

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八咫烏は誰? 
投稿者:Legacy of Ashes の管理人
投稿日:2015年 6月12日(金)21時33分50秒  
http://8550.teacup.com/shig/bbs/590
ある霊能力者からヤタガラスはニギハヤヒ&物部氏&蘇我氏を裏切って神武の側についた紀氏だという話を聞きました。民族的には同じ部族に属するとのこと。あと、蘇我馬子は物部守屋の子供だったので、守屋はわざと討たれたとの話も…。本当かどうかはわかりません。
その霊能力者は大阪府八尾市にある物部守屋のお墓を管理しているという物部氏の末裔からその話を聞いたと言っていましたよ。
管理人注:物部守屋はイルミナティだった
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1592
日本建国イザナギとイザナミ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1798.html
『何が、言いたいかといえば、日本人はロシアから北海道を渡ってきた人々、中国・モンゴルから朝鮮半島から渡ってきた人々、南の島々から渡ってきた人々、中国江南地方から渡ってきた人々で、縄文人は構成されていましたが、
漁労と稲作をなりわいとする、日本という国家を形成した弥生の人々は、中国江南地方からやってきた長江文明の人々で、彼らが、南九州にたどり着き(天孫降臨)、さらに瀬戸内海を通り、東に進み(神武東征)、淡路島・阿波を支配し、最後に天然の要塞(西側には、大和川を通じて、穏やかな瀬戸内海に出れて、東側は山に囲まれている。)である大和地方に政権を築いたものと思われます。
現代でも、中国と朝鮮半島は似たところがありますし、日本と台湾は合うところがあります。 これは、黄河文明(漢民族:肉食と小麦、砂漠=家の中土足)、長江文明(漁労と稲作、高温高湿=高床式住居、水稲・湿地=靴を脱ぎ、足を洗って家に入る)差があるのかもしれません。
すなわわち、日本は長江文明の末裔という事が出来ると思います』
ハムレットの水車小屋
http://8550.teacup.com/shig/bbs/590
紀氏で検索すると
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7YWPWvt0npVKy4AmR2JBtF7?p=%E7%B4%80%E6%B0%8F&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
『紀氏(きうじ)は、「紀」を氏の名とする氏族。
大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。
概要
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。
具体的には、雄略天皇朝の小弓、顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したと伝わる。葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。
天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚として更に繁栄し、桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるも家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。
紀氏の流れを汲む末裔として、田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏(近世大名家の堀田氏につなげるのは仮冒か)・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。また、紀伊国造家は天元年間に男子が途絶えたため、長谷雄の曾孫行義を嗣として以降朝臣姓を称した。なお、中世以降の紀氏には、橘朝臣姓を仮冒した者が多いと言われる』~Wikiより
管理人注:
天智天皇が百済を助けようとしたのはなぜですか。特別な血縁関係があっ ...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1388167173
天智天皇」は、九州倭国が白村江で唐ー新羅の連合軍により大打撃を受け、筑紫で 戦後処理をしている真っ最中に、百済からの亡命王族や遺民を結集して近江に政権を 樹立します、でも...
質問日:2012年5月29日
百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武 ... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13127630518
百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武天皇系)これ事実かな - 国が支援 されたものにさらにちょうど似ていると言うことができますが、それはそんな単純なもの で...
石清水八幡宮の解説
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3288
石清水八幡宮別当家で検索すると.....
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7YWPW_F1HpVCgwALOCJBtF7?p=%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E5%88%A5%E5%BD%93%E5%AE%B6&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
石清水八幡宮・石清水祭・石清水文書 - So-net
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-iwashimizu.htm - キャッシュ
のち別当家は田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路〈きくおおじ〉と名乗る)両家に分立 した。 機構としては政所(まんどころ)、公文所( ... 京都府八幡(やわた)市の石清水 八幡宮で毎年九月十五日に行われる例大祭。
賀茂祭(葵祭)、春日祭とともに三大勅祭 の ...
鎌倉末・南北朝期に於ける石清水別当家領庄園の 支配構造と領主制的 ...(Adobe PDF)
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id...1015
鎌倉末・南北朝期に於ける石清水別当家領庄園の. 支配構造と領主制的特質. 山 内 政 治. 一、 はじめに. 平安時代末期、 伊勢神宮と並ぶ 「国家の宗廟」 として鳥羽天皇御願 文に記された山城石清水八幡宮は真諦元年 (八. 五九) の創建以来、 平安京の裏鬼門  ...
ハムレットの水車小屋
http://8550.teacup.com/shig/bbs/590
石清水八幡宮文書(いわしみずはちまんぐうもんじょ)とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/石清水八幡宮文書-1506249 - キャッシュ
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE-32658
日本大百科全書(ニッポニカ) - 石清水八幡宮文書の用語解説 - 石清水八幡宮旧別当家 であった田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路(きくおおじ))両家および旧神官諸家に 伝わる文書の総称。古代以降の同宮領、同宮内の支配組織、同宮と公武権力との関係  ...
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)とは - コトバンク
http//kotobank.jp/word/石清水八幡宮-32658 - キャッシュ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 石清水八幡宮の用語解説 - 京都府八幡市に 鎮座。 ... 源氏の祖神として崇敬し、鎌倉鶴岡(つるがおか)八幡宮などを各地に勧請、 1185年(文治1)頼朝(よりとも)は神領を寄進し、1191年(建久2)には別当領を保護した 。
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-大辞林 第三版-デジタル大辞泉
田中宗清(たなか そうせい)とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/田中宗清-1090009 - キャッシュ
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%97%E6%B8%85-1090009
1190-1237 鎌倉時代の社僧。
建久元年8月10日生まれ。田中道清(どうせい)の子。建久9年に出家。文暦(ぶんりゃく)2年山城(京都府)の石清水八幡宮寺(いわしみずはちまんぐうじ)別当,のち検校(けんぎょう)となる。父が整理した家伝の文書や記録を「宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう)」にまとめ,その増補につとめた。嘉禎(かてい)3年6月9日死去。48歳。
宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう)」とは?
〈みやでらえんじしょう〉ともいう。鎌倉初期,別当家の田中道清が石清水八幡宮に伝来する文書・記録等を整理・書写して項目に従って分類・類聚したものに,子孫が代々書きついでいったもの。道清の子宗清の手になるものが主要な部分を占める。原本は数十巻にものぼっていたが,散逸したものが少なくない。《大日本古文書》はそのうち42巻を所収。未収部分が多い。田中家旧蔵,写本は尊経閣文庫蔵。【伊藤 清郎】
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 田中宗清の用語解説 - 1190-1237 鎌倉時代の 社僧。建久元年8月10日生まれ。田中道清(どうせい)の子。建久9年に出家。文暦(ぶん りゃく)2年山城(京都府)の石清水八幡宮寺(いわしみずはちまんぐうじ)別当,のち検校( ...
辞書別に見る:世界大百科事典 第2版
四六章 弟・権別当成清の失脚(一) - nifty
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/tkk47.html - キャッシュ
この年の暮、宇佐弥勒寺講師・喜多院院司を兼務していた小侍従の弟・石清水権別 当成清は、十二月に急遽宇佐に下る事になった。この間の成清 ... 成清は保元元年(一 一五六)閏九月二十四日、鳥羽法皇の御遺志により石清水八幡宮寺の修理別当となっ た。
石清水八幡宮文書を調べたい。 | レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000050320
大日本古文書 家わけ第4ノ1 / 東京帝國大學編纂 東京帝国大学文科大学史料編纂所 , 1909 石清水文書之1 大日本古文書 家 ... 石清水八幡宮旧別当家であった田中・善 法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路(きくおおじ))両家および旧神官諸家に伝わる文書の総称。
関連記事:物部守屋
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6547
ハムレットの水車小屋
http://8550.teacup.com/shig/bbs/590
ツイッターに少し書いたのですが、下記記事を読んで山形大学の発表の仕方と新聞記者の能力に疑問を感じたので、こちらにまとめておきます。
先ずは毎日新聞(地方版)。
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物部守屋:顕彰碑拓本、山形大図書館で発見 
飛鳥時代の仏教反対派・有力豪族 明治の廃仏運動背景に /山形
山形大は18日、飛鳥時代の有力豪族、物部守屋を顕彰する明治時代の石碑拓本が同大小白川図書館で見つかったと発表した。山形在住の有志が仏教反対派だった守屋をたたえる内容で、明治期の廃仏運動の高まりとの関連がうかがわれる。発見した同大人文学部の三上喜孝准教授(日本古代史)によると、同時期に守屋を顕彰する資料は他に例がなく珍しい。
三上准教授によると、拓本は縦3メートル、横2メートルで、昨年7月、図書館内の資料を整理した際に見つかった。
石碑本体は1896(明治29)年12月に建立され、山形市の千歳山公園に現存するが、昨年まで草木に覆われ忘れられた存在だった。
題字は皇族で軍人の有栖川宮熾仁(たるひと)親王が、碑文は公家出身の政治家、東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ)が書いたと石碑に刻まれている。
守屋は敏達天皇らに仕えた有力豪族で、仏教を受け入れることに強く反対。
仏教受容派の蘇我馬子と聖徳太子らと対立した結果、攻め込まれて死亡した。
碑文では「公の忠憤義慨世に明らかになりもて」とあり、守屋の忠言をたたえている。
石碑が建立された背景には、神道と仏教を分離したために寺院などを破壊する廃仏運動が広がったことがあるとみられるが、詳しい事情は分かっていない。
また、京都大付属図書館に同時期に同様の方法で作製された拓本が収蔵されていることも判明した。
有栖川宮、東久世の両氏は尊皇攘夷運動で長州藩とのゆかりが深いが、山形とのつながりは不明。三上准教授は「なぜ山形で守屋を顕彰したのかが最大の謎。山形の近代史を考える上で貴重な資料だ」と話している。
http://mainichi.jp/feature/news/20120919ddlk06040003000c.html
ついで朝日新聞。(無料分のみ)
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物部守屋大連の碑、山形大に拓本 尊皇攘夷運動と関連か
山形大は18日、明治時代に山形市の千歳山に建てられた石碑「物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)の碑」の拓本が見つかったと発表した。
物部守屋は仏教受け入れに反対した古代の豪族。
拓本は石碑と同時期のもので、幕末・維新の尊皇攘夷(じょうい)運動や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と関連している可能…
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201209180485.html?id1=2
石清水八幡宮・石清水祭・石清水文書
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-iwashimizu.htm
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
京都府八幡(やわた)市の男山(おとこやま)に鎮座。祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、比※大神(ひめおおかみ)。旧官幣大社。
※口へんに羊
859年(貞観元)大和国大安寺僧行教(ぎょうきょう)が大菩薩の示現(じげん)により宇佐宮(うさぐう)から山城国男山の地に八幡神を勧請(かんじょう)したのが始まりという。861年に京畿名神(けいきみょうじん)七社の一とされ、876年には山城国年米(ねんまい)42石を充てられるなど朝廷の崇敬はあつく、
かつ945年(天慶八)に上洛してきた志多良神(しだらじん)を同宮へ吸収してその摂社にするなど、鎮護国家神としての位置づけがなされている。神社と神宮寺(じんぐうじ)たる護国寺が一体になった宮寺(みやでら)形式の体制をとっているのが特徴である。
中世には宮寺内の組織は祠官(しかん)(検校〈けんぎょう〉、別当〈べっとう〉、権別当〈ごんのべっとう〉、修理別当〈しゅりべっとう〉、少別当)、神官(神主〈かんぬし〉、権神主〈ごんのかんぬし〉、俗別当〈ぞくべっとう〉、権俗別当〈ごんのぞくべっとう〉、禰宜〈ねぎ〉)、三綱(さんごう)から成り、行教が紀(き)氏出身であったため別当には代々紀氏出身僧が多く任じられ、なかでも御豊(みとよ)系紀氏一族が検校・別当を独占した(両職とも太政官符をもって補任〈ぶにん〉される)。のち別当家は田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路〈きくおおじ〉と名乗る)両家に分立した。
機構としては政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、達所(たっしどころ)、供所(そなえどころ)、馬所(うまどころ)、諸奉行(検断奉行・神人〈じにん〉奉行など)が存在した。神人は本所神人と諸国に存在する荘園・別宮(べつぐう)などにいる散在神人に分がれるが、前者は芸能者・手工業者・商人・諸郷民から成り、ことに大山崎油神人(おおやまざきあぶらじにん)は荏胡麻(えごま)の購入独占権を得て荏胡麻を山崎に集荷し、製油して販売し、朝廷や幕府から関津自由通行権を付与され、営業範囲は畿内一円から九州方面にまで及んだ(大山崎油座)。
社領は護国寺領、宿院(しゅくいん)極楽寺領、別当家領、社務領、供僧所司(くそうしょし)領から成り、12世紀末には西は九州、東は関東にまで広がっている。このうち紀氏一族が有する別当家領が膨大で、これを基盤にしながら組織・機構の中枢を掌握してみずからに権力を集中した紀氏門閥体制を形成した。
祭礼は旧暦三月の石清水臨時祭(りんじさい)と旧暦八月の石清水放生会(ほうじょうえ)(石清水祭)が宮内の二大勅会(ちょくえ)であり、後者は「殺生禁断(せっしょうきんだん)」の思想を国家的に行ったものとして注目される。
二十二社のうら、上七社に属し、伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟(そうびょう)とされ、天皇のたびたびの行幸(ぎょうこう)があった。室町時代には足利将軍がしばしば参宮し、織田信長・徳川家康も参詣した。また源頼信が一○四六年(永承元)に願文(がんもん)を納めてその加護を立願(りゅうがん)して以来、八幡神が源氏の氏神となり、頼義・義家父子をはじめとする源氏一族の活躍とともに各地に勧請されていった。鶴岡八幡宮はその好例である。
またこの男山の辺は要害の地で、古代よりしばしば京都をめぐる攻防戦が演じられている。現社殿は寛永年間(1624-44)徳川家光の造営によるもので国宝。ほかにも五輪塔、石造灯籠など、重要文化財に指定されているものが多く、古文書として「石清水文書」を伝存する。1869年(明治2)男山八幡宮と改称するが、1918年(大正7)石清水八幡宮に復した。
【参考文献】
石清水八幡宮編・刊『石清水八幡宮史』全九巻、1932~39年。豊田武『座の研究』豊田武著作集1、吉川弘文館、1982年。伊藤清郎「石清水放生会の国家的位置についての一考察」(『日本史研究』188、1978年)。鍛代敏雄「石清水社に於ける『穢』の問題」(国学院大学大学院紀要文学研究21)
(『日本史大事典』伊藤清郎氏)
石清水祭(いわしみずさい)
京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮で毎年九月十五日に行われる例大祭。賀茂祭(葵祭)、春日祭とともに三大勅祭の一つ。古くは旧暦八月十五日に行われ、明治まで石清水放生会(ほうじょうえ)と称した。放生会の起源は、「政事要略(せいじようりゃく)」によると、七二〇年(養老四)隼人(はやと)征討のとき隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようにとの宇佐八幡神の託宣により始められたと伝えられる。
石清水における放生会は、八六三年(貞観五)僧安宗(あんそう)により初めて行われ、九四八年(天暦二)勅祭に準じた祭儀となる。九七四年(天延二)朝廷の節会に準じて楽を奏するようになり、一〇七〇年(延久二)には神幸(しんこう)を行幸(ぎょうこう)の儀に準じて行うようになり、上卿(しょうけい)以下の参向を得て盛大となった。
石清水放生会は八月の月初めから捕らえておいた生魚・生鳥を山や川に放ち、天皇・将軍はじめ万民の泰平を祈願する祭りで、人々の厚い崇敬を受けた。しかし、応仁の乱以降しばしば延引、中絶した。一六七九年(延宝七)再興されたが、明治維新後、再び中絶、一八八四年(明治一七)勅祭として仏教色を排して再興された。
現行の祭儀では、九月一五日午前二時に八幡三座の神霊を鳳輦(ほうれん)三基に移して山を下り、二ノ鳥居に設けられた絹屋殿(きぬやでん)に着く。ここで里神楽(さとかぐら)と秦楽があり、勅使以下の奉迎(ほうげい)を受ける。これより行幸に準じた行列を組んで山麓の頓宮(とんぐう)に着く。頓宮では神職が神饌(しんせん)・花を供え、次に宮司が祝詞(のりと)を読む。次いで勅使が幣物(へいもつ)を供え祭文(さいもん)を読み、宮司が返祝詞(かえしのりと)をいう。このあと神前に神馬(しんめ)を引きまわし、雅楽奉奏があって、幣物・神饌・供花(くげ)を撤し、一同退下(たいげ)する。その後放生池(ほうじょういけ)において魚鳥を放つ行事が行われる。鳳輦三基は夕刻まで頓宮にとどまったのち、遷幸(せんこう)の儀があり、山上の本社に遷御(せんぎょ)し、宮司が祝詞を読み扉を閉じて、祭儀を終了する。
また、同宮の大祭の一つである石清水臨時祭(りんじさい)は、九四二年(天慶五)に平将門・藤原純友の乱平定の報賽(ほうさい)のため臨時に行われたのが始まり。
九七一年(天禄二)からは名称は臨時祭のままで恒例となり、毎年旧三月第二の午日(うまのひ)に行われた。古くは賀茂臨時祭を北祭(きたまつり)というのに対して南祭(みなみまつり)ともいわれ、京の二大祭の一つ。臨時祭は戦乱のため、一四六七年(応仁元)に中絶、のち一八一三年(文化十)再興されたが、七十年(明治三)に廃止された。
【参考文献】
石清水八幡宮編・刊『石清水八幡宮史』全九巻、1932-39年。
(『日本史大事典』岡田荘司氏)
石清水文書(いわしみずもんじょ)
京都府八幡(やわた)市八幡に鎮座する石清水八幡宮に伝存する、田中家・菊大路(善法寺)家両所伝文書を中心とする、平安時代から江戸時代末期に及ぶ膨大な古文書・古記録。所蔵文書を大別すると、石清水文書(田中・菊大路両家文書)と当宮古文書(古記録・東竹〈ひがしたけ〉文書)に分類される。後者は刊行に及んでいないが、前者は「大日本古文書」家わけ第四「石清水文書」六冊のほか、石清水八幡宮の編集・刊行になる「石清水八幡宮史」九冊(1932-39)、「石清水八幡宮史料叢書」五冊(1960-76)、「続石清水八幡宮史料叢書」三冊(1985-)として刊行されている。本文書は、同宮の由緒来歴・祭神・祠官(しかん)の継承などだけでなく、日本史全般の政治・経済・文化などに関する文書も多数含む。なかでも、同宮に関する文書・記録等を項目ごとに分類・類聚した「宮寺縁寺抄(ぐうじえんじしょう)」や、仏教制度上貴重な、全文版刻された康治二年(1143)四月付の沙弥慶清度縁(しゃみけいせいどえん)は、その代表的なものである。
(『日本史大事典』 伊藤清郎氏)

ハムレットの水車小屋
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石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
〔現〕八幡市八幡高坊
京都盆地の西部、山城と河内の接する辺りの淀川左岸男山に鎮座する。
男山は淀川を隔てて天王(てんのう)山をひかえた山崎(現乙訓郡大山崎町)の地に対し、山上からは山城・河内・大和の国々が眺望される。
男山東麓の御幸(みゆき)道から一の鳥居を入ると、右手に下院(げいん)とよばれる頓宮(とんぐう)殿・極楽寺跡・高良(こうら)神社があり、
二の鳥居の手前で、東側から登る裏参道と南麓を迂回する表参道とが分れる。
二の鳥居から三の鳥居に至る右手には護国寺跡や豊蔵坊、泉坊・滝本坊(一帯は松花堂跡地として国指定史跡)など多数の坊跡がある。
三の鳥居内には鳩嶺(きゅうれい)書院があり、本殿(上院)に至るまで両側には六五○余基の石灯籠が立ち並ぶ。
「延喜式」神名帳にはみえない。「宮寺縁事抄」(石清水文書。以下同文書および「石清水八幡宮史」所引文書については個別文書名のみを記す)は、当宮・平野社(現京都市北区)・祇園杜(現京都市東山区)など、魚味を供さない社は神名帳には載せない旨を述べている。祭神は誉田別命(本地仏は阿弥陀あるいは釈迦)・息長帯比売命(同観音あるいは文殊)・比▲大神(同勢至あるいは普賢)。旧官幣大社。▲口へんに「羊」
〔草創〕
行教筆と伝える護国寺略記によれば、
大安寺(現奈良市)の僧行教が貞観元年(859)四月宇佐宮(現大分県宇佐市)に参詣したところ、八幡大菩薩が行教の修善に感応し、近都に移座し国家を鎮護しようと託宣した。
そこで京に上ろうとしてまず現在の山崎離宮八幡(現大山崎町)の地に至り、ここで再び八幡神が示現して男山に移座することを宣した。そこで宇佐宮勧請を朝廷に奏請し、清和天皇は木工権允橘良基に命じ宇佐に準じて六宇の宝殿を造営させた。翌二年、三所の御体を遷座し祭祀したという。
しかし実際のところはこの遷座後宇佐宮大宮司大神田麿に従五位が授けられたように、宇佐宮すなわち大神氏からの働きかけが大きかったと思われる。奈良時代、東大寺大仏鋳造に際しその守護神として中央に登場した宇佐神が、和気清麻呂以来関係深い和気氏、また和気氏とつながりのあった行教らと結んで新都へ進出を図ったと思われる。
ちなみに和気氏の氏寺神護寺(現京都市右京区)は宇佐八幡の神託によって建立されたと伝える。また一説に天安二年(858)清和天皇の即位に際し、宇佐使として和気氏が派遣されたが、従僧として行教が随伴したという。行教は紀氏の出で、当時そのいとこの神護寺別当真済、兄の紀夏井のほか、紀今守・紀静子(文徳天皇妃)などの紀氏によって中央とのパイプがつながっていた。
一方、男山の地は平安京にとって西南裏鬼門にあたるため鬼気を祭祀すべき地であった。承和九年(842)の変では、宇治橋・山崎橋・淀渡などが警固されたように(「続日本後記」同年七月一七日条)、京都防備のための関門にもあたる。また桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、難波津(現大阪市)から瀬戸内海へ開ける古代水運上の要衝の地で、大和と丹波を結ぶ山陰道も八幡を通っているなど、水陸交通上の利点があり、対岸の山崎郷が大安寺領であったことなどから、行教に注目されたものだろう。
ところで男山には、八幡宮遷座前に石清水寺と称する寺があった。
行教はこの寺を敬い、一説に石清水の社名はこの寺名によるという。遷座後の貞観五年に秦請してこれを護国寺と改称したという。いわゆる神宮寺だが、当宮の場合神杜に附属して建てられたというより、当初より一体のものと考えられており、まず寺がありのちに僧侶によって神が勧請されたわけで、寺および寺僧が主導権を握っていた。遷座後一八年目にしてようやく宇佐宮に準じて神主が置かれるなどはその表れであり、当社が宮寺(みやでら)と称されるのは当をえている。
八幡神は能動的で時流に敏感な神であった。
奈良期以降一般に波及した神仏習合思潮は、八幡神に最も顕著にみられる。
奈良時代、八幡神は大神・比売神の二柱の人格神とされ、次いで平安初期にかけては大自在王菩薩・護国霊験威力神通大自在王菩薩と称されて鎮護国家の神とされた。
石清水遷座頃には大菩薩・大帯姫・比▲大神の三柱となり、それぞれ応神天皇・神功皇后・応神妃に比定されるに至り、皇室の祖神を祭祀する祖廟とされた(「三代実録」貞観十一年一二月二九日条)。
当宮はその成立事情から当初より賀茂社・松尾社などと並び七社奉幣等がなされていたが、延喜一六年(916)には賀茂社を抜いて奉幣第一社になり(「日本紀略」同年六月一二日条)、天慶二年(939)五月一五日には伊勢に次いで奉幣され、この頃伊勢に次ぐ第二の宗廟たる位置を獲得したようである。
〔宮寺の確立〕
貞観五年行教の甥安宗が初代別当に補され、同一八年山城国正税から年料四二石があてられた。また初めて紀御豊(行教甥)が神主に補されている。貞観年中には放生会も始められた。元慶二年(878)安宗が宿院極楽寺を創建、寛平八年(896)行教の弟益信が東寺一の長者にして当宮の初代検校に補される。益信は宇多天皇の帰依厚く天皇の出家に際し灌頂の師となった高僧。この後順次権別当・三綱・俗別当・修理別当・山上御殿司・山上入寺などが補され、長和三年(1014)宇佐八幡神宮寺の弥勒寺講師元命が石清水の別当になるに及び、当宮は弥勒時を管掌下に置くようになった。さらに永承六年(1051)には、元命の跡を継いで別当になった清成が筥崎官(現福岡市)の大検校職に補されるなど、当宮は九州にまでその勢威を及ぼすことになった。
当宮は前述のように神宮寺である護国寺が一山を管掌し、政令はことごとくここから出る。重職は僧侶が占め、神主・俗官はその下に従った。その結果、神前に魚味を供さず、内陣のことも僧侶が管し、神前読経はもちろん、内陣の装束・器具も仏式が用いられた。
検校は別当以下を統括する職で常置ではなかったが、のちには別当職を子弟に譲り検校に転じる風を生じ、勢力をもつ。鎌倉以降常置となり、検校を社務と称して一山を支配した。別当は第一代安宗からしばらくは宮寺祠官の長官として社寺務を管掌したが、のちには検校の下に属した。別当の下に権別当・修理別当・小別当などが並置され、さらに俗別当も置かれている。検校・別当と称しても、形の上だけの僧形で、妻帯しその職を世襲するなど一般寺院とはまったく異なった。
一方、承平四年(934)別当総祐が妙楽寺を創建、応和元年(961)別当観康が東三味堂を建立、天喜三年(1055)には宝殿大回廊・馬場殿造営がなされるなど山内境域も整備されていく。さらに天慶三年、天慶の乱平定を祈り朱雀天皇より封戸二五烟が寄せられ、乱平定後の同五年には臨時祭が始められた。天元二年(979)三月二七日には、円融天皇が初めて行幸し、寛仁元年(1017)には後一条天皇が行幸し封戸一○○烟を施入した。
天慶八年志多良神とも八面神・小藺笠神ともいう新たな神々が東西諸国から入京してきた。この神々の正体は不明だが、鼓を鳴らし童謡をうたい乱舞して神輿を担っ た、数千数万という大衆をつき動かして動座してきたものであった。これは平安初期以来京内の人々の間から発生した御霊信仰が展開し、その結果彼らが不安な世相から逃れて生活が安定することを願い、新しい京外の強カな神を請じ入れようとしたものであろう。さらにこの頃始まった称名念仏からの影響もあったと思われる。ともかくこの志多良神が実は八幡神の眷族であるとされ、石清水八幡に遷座し包含された。さらに当時疫神の侵入を防ぐため、平安京の四隅および畿内の十堺で、塞神を祀る道饗祭が行われていたが、石清水の地も山城・河内境として祭祀された所で(「類聚符宣抄」所引天徳二年五月一七日付官宣旨)、境内に疫神堂が設置されていた。このようにして石清水八幡宮は広く衆庶の信仰をも集めるることになった。
天元二年の円融天皇の行幸以降天皇・上皇の参詣は度々で、一代一度の参詣が恒例とされた。藤原氏も応和三年左大臣藤原実頼の初参以来、天禄二年(971)・同三年摂政伊尹が参詣、天延元年(973)右大臣頼忠が参詣している。また藤原道長と延暦寺権僧正慈忍が道長父兼家の夢告により、兼家女詮子の産んだ一条天皇の皇胤繁栄を願って建立した妙香院(康治元年八月二二日付「官宣旨案」塚本吉彦氏所蔵文書)は、当宮内にあったと考えられる。
「男山考古録」によると「日本書紀通証」は、貞観一二年宗像大神告文に神功皇后新羅出兵の折、相ともに力を加えてわが朝を救ったとあるのを引いて「宇佐男山等の宮三女神合祭神功・応神、乃称弓箭神者」と記し、つとに弓矢の神・戦勝の神として知られるところであった。このため武家の崇敬するところとなり、とくに源頼信が永承元年誉田(こんだ)八幡(現大阪府羽曳野市)に祭文を棒げて家門の繁栄を祈って以来、八幡神は武神にして源氏の氏神でもあると考えられるようにもなった。その子頼義の信仰も強く、前九年の役(永承六-康平五年)では戦勝を八幡宮に起請し、戦後報謝して康平六年(1063)石清水を勧請して相模国由比郷に一社を創建したという(「吾妻鏡」治承四年一○月一二日条)。のち鶴岡八幡宮として移祀された。
所領は朝廷などの寄せる封戸三○○余烟のほか、荘園も漸次開発寄進され、延久四年(1072)後三条天皇によって当宮領荘園が整理された時には、荘園三四ヵ所(山城国六、河内国一六、和泉国三、紀伊国七、美濃・丹波各一)を数えたが、このうち一三所が券契不分明として停止され、二一所が領掌されている。これは当宮にとって非常に厳しい処置ではあったが、これに先立つ延久二年、整理令断行の懐柔の意味もあってか、天皇は石清水放生会を貿茂祭に準拠して諸儀行幸に準じることとした。なお同三年検校戒信が初めて宮寺の年中行事を定めており、この頃までを当宮の体制確立期とみることができるだろう。
〔別当家と所領の拡大〕
 後三条天皇の次の白河天皇は仏教に熱心であったが、当宮寺にも承暦元年(1077)行幸し封声五○姻を寄せたのをはじめ、毎年三月には恒例のように行幸した。寛冶六年(1092)当宮宝前で金泥大般若経一部供養と転読を行い、また仁王講・御八講などの仏事が白河天皇の沙汰で度々行われている。境内に天永三年(1112)大塔を、大治三年(1128)経蔵を建立。この天皇の姿勢を反映して、摂政藤原忠実は天永元年宮寺に封戸一○烟を、宝塔三味院に封戸一○○姻を施入し、院近臣の駿河守平宗実は、天治三年(1126)多宝塔(駿河三味堂)を建立している。
このような白河治政下で、春日神木初入洛・日吉神輿初動座がなされ、強権となった興福寺・延暦寺衆徒による横暴が起こるが、当宮でも八幡神人の横暴が現れる。長元八年(1035)には但馬守源則理と争論し、国守の部下と闘争に及び死傷者を出して国守を訴えたのに対し、国守以下七人が流罪に処された。寛治三年の松尾社との相論の際には松尾社神殿を打ち開き、天永二年放生会御秣使等が賀茂庄(現京都市北区)で濫行の結果、賀茂神人を殺害、永久二年(1114)祇園神人と闘争に及んで双方負傷するなどの事件を起こしている。彼らの有様は天永四年四月一五日の神人衆徒の濫行停止を起請した鳥羽天皇宣命の文中に、「刀兵を横にし、甲冑をかぶり、弓箭を携え、矢石を朝夕の翫として、結党し群をなし公私の田地を横領、上下の財物を掠奪する」とみえている。
検校光清は娘(美濃局)が鳥羽天皇後宮に入り六宮(道恵法親王)・七宮(寛快法親王)・姫宮(双林寺宮)を産んで外戚となり、天承元年(1131)権大僧都に補されるなど別当家の地位を向上させた。光清は当宮別当にして宇佐の弥勒寺(および喜多院)、竈門(かまど)神社(現福岡県筑紫郡太宰府町)、大隅(おおすみ)正八幡宮(現鹿児島県姶良都隼人町の鹿児島神宮)を兼帯し、さらに孫の慶清の時には、一時当宮の管掌下から離れていた筥崎宮も領掌するなど、石清水八幡は全国八幡の総帥のごとき観を呈した。
宮寺領も延久以後再び増加し、保元三年(1158)一二月三日付の、宮寺ならびに極楽寺領の領家・預所などの押領を停止した官宣旨では、宮寺領は三三国にわたり一○○所を数え、極楽寺領も一五国三七所を数える。これら社領は、承安三年(1173)朝廷より、当宮の鎮護国家宗廟たるをもって伊勢大神宮役夫工雑事米の負課が停止されて以降それが恒例とされ、鎌倉幕府もまた宮領の地頭職を停止し武士の対捍を制止した。室町幕府も同様伊勢・賀茂・石清水の三社領は役夫工米停止とし、また段銭以下諸公事・守護役等免除の特権が与えられた。
しかしこのような当宮の拡張により、別当家では光清の二子勝清(田中家祖)と成清(善法寺家祖)が二流に分れ、鎌倉時代以降はさらに庶流に分れた。また光清頃から代々の別当・院主が、私の処分により門徒妻子眷族らに宮寺領を譲与するようになり、各祠官家相伝の家領とされるに及んで坊領を形成するに至った。
田中坊は、観音堂領(光清から美濃局に譲られる)・筥崎宮領(天承元年島羽上皇御幸の勧賞として任清が筥崎宮検校に任じられて以来田中家相伝)・宇美(うみ)宮(現福岡県粕屋郡宇美町)領(治承二年後白河法皇より慶清門流相伝を認められる)・宝塔院領(田中行清の子東竹良清が院主職となって以来竹坊領となる)などをおもな坊領とし、その荘名の判明するものは二八国八一所を数える。
善法寺坊は、弥靭寺(および喜多院)・正八幡宮領(嘉応三年成清が弥勒寺講師職ならびに喜多院院主職となり、建久元年成清から子佑清に伝えられて以来当流の坊領となった。その所領は豊前・豊後などに一一四所)・香椎(かしい)宮(現福岡市)領(建久四年八月一五日当宮一日修理の功として香椎宮領二六所を成清に与えられて以来伝領)ほか坊領も含め、四八国三一七所に達した。旧来の宮寺領のうち坊領とされるものも多く、宮寺領(極楽寺領一○所)はわずかに三六所が維持されているにすぎなかつた。
また保延六年(1140)二月二三日創建以来の社殿が焼失したが、さっそく二七日には再造の役国が、美作国(宝殿六宇、南楼一宇)・播磨国(廻廊三五間半東、南楼一宇、馬場屋一宇)・越前国(廻廊三五間西、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門)と決定され、宮寺は諸神一六宇の造営にあたり、同年四月二日には宝殿が成って遷宮している。
〔武家政権と八幡〕
建久三年(1192)源頼朝は「吾妻鏡」治承四年(1180)七月五日条に「恭八幡大菩薩氏人、法華八軸持者也、稟八幡太郎遺蹟、如旧相従東八ヶ国勇士」とみえるように前代の源家のあとをうけ、八幡を氏神とした。同年、先の由比郷の八幡宮を鎌倉鶴岡に移して鶴岡八幡宮とし、源家の守護神とした。
石清水に対しては寿永四年(1185)御家人らが宮寺領の年貢を抑留して兵糧米を課すのを停止したのをはじめ、同年、阿波三野田保(現徳島県三好郡三野町)を寄進し、建久元年鶴岡八幡宮焼亡後の新社殿再造の際には、新たに石清水より分霊を奉じて神殿を建造。さらに同年の初参詣以来、翌年一回、再入京する同六年には三月の臨時祭に参じ、四月には政子・大姫を伴ってと、頼家を伴っての二度参詣している。
こうして当宮は、鎌倉時代にも時の権力者と密接な関係を保ち、そのうえ武士層に八幡信仰が浸透し各地に八幡神が勧請されるに及び、所領の寄進等も相次ぐなど、 その威光はいっそう増した。
このため前代に引き続き神人の専横も現れ、弘安二年(1179)延暦寺との争論では当宮神輿が初めて入洛したが、この後も重大な争論には神輿を奉じて強訴の挙に出た。幕府は嘉禎元年(1235)五月当宮に男山守護を置き、甲乙人の狼藉を取り締ることにしたが(「吾妻鏡」同年同月一六日条)、前述の動向に歯止めをかけるに至らなかった。寛元三年(1245)には「近日宮寺、以武勇為先、以博奕為業」という有様だったので、同年九月一八日後嵯峨天皇から停止の綸旨が出され、さらに同様の趣旨の亀山院院宣が弘安元年一二月二七日に、永仁三年(1295)四月一三日にも伏見天皇綸旨が出されている。
神人はのちいっそう武装集団化した。南北朝期には、西国から京に入る関門である当地は動乱の舞台となり元弘二年(1332)六波羅探題の下知により本宮祠官らは淀橋などを警固した。建武三年(1336)大山崎(現乙訓郡大山崎町)上下神人中宛に出された南朝方阿蘇宮令旨(西明寺文書)に「為朝敵追罰被召群勢処馳参条、神妙之由」と参陣を嘉しているように武士団に混じり戦闘に荷担しており、応永三一年(1424)には幕府の軍勢に抗して闘争するほどであった(「看聞御記」同年六月一九日条ほか)。
八幡神人中最も威を振るったのは山崎離宮八幡宮に拠った大山崎神人で、平安末頃から灯油の商活動を始めたが、本宮内殿の灯油を献上し日頭役を勤仕して、鎌倉時代諸国関所の関銭免除の特権を得、さらに関料・津料免除に加えて荏胡麻油の専売権を得(弘長元年八月一一日付「後嵯峨上皇院宣」山城疋田家文書)、非常な富と力をもつに至った。別当家に対し、別当の交代を求めて強訴するなどの挙に出ることも多かった(「看聞御記」応永二九年七月一日条。)しかし応仁の乱以後しだいに衰微し、江戸時代には油市場から撤退していった。
足利氏は、尊氏が元弘三年篠村(しのむら)八幡(現亀岡市)に奉じた願文(八幡宮文書)に「右八幡大菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也(中略)所謂大菩薩之社壇也、義兵成就之先兆、武将頓速之霊瑞也」と述べたごとく、八幡神を氏神・武運の神として崇拝した。当宮にも検校善法寺通清に付して度々戦勝祈願をしており、暦応元年(1338)兵火で社殿が炎上した際には、すぐさま再営に着手し年内に造営を完了させている。 この精神は足利氏代々に受け継がれ、幕府が京都におかれたこととも相まって武家政権のなかでは最も当宮と親近の関係を保った。幕府は一般社寺に対しては社寺奉行を置いたが、とくに当宮には男山奉行を置いた。
義満の時、社務は将軍代始に改補と決まった。この時社務は田中家であったが、義満は生母が善法寺通清女であった縁からも当宮善法寺家に親近であった。永和元年(1375)初参以来、社参は一五度を数え、康暦二年(1380)近江国福能部(ふくのべ)庄を寄進したのをはじめ(同年六月一日付足利義満寄進状)、所領寄進も怠りなかった。また明徳四年(1393)の放生会には、義満自らが上卿を勤めたりしている。
次いで義持は応永五年の初参以来三七度も社参。別当家では田中融清が応永七年検校に補されて以来応永-永享年中力を振るい、その坊舎として棟一○○坪の檜皮屋の日本一の家を作ったという(石清水祠官系図)。応永三五年義持没後、後継者を決めるに際し、石清水八幡の宝前でくじを引き、義教に決定したが(「満済准后日記」同年一月一七日・一八日条)、融清も三宝院満済とともにこれにかかわっていたと思われる。永享六年(1434)義教・御台を饗応したが、多分の引出物を献じ、一献料一万五千疋を用意したものだったという。義教は永享五年、八幡宮縁起二巻を当宮に奉納した(昭和二二年の火災で焼失)。
室町時代の所領寄進も歴代将軍や守護大名たちからかなりにのぼった。貞和元年(1345)八幡神領は役夫工米免除の幕府御教書が出され、応永一九年には、段銭以下諸公事并守護役・人夫・伝馬なども免除する旨の御教書が出されていたが、幕府体制の弱体化とともに、これら荘園も有名無実化して当宮経済も逼塞してゆく。
そのため当宮臨時祭は応仁元年(1467)を最後に、放生会も文明一五年(1483)を最後としていったん途絶えた。
さらに永正五年(1508)社殿が焼失したが、再建ははかどらず、大永六年(1526)にようやく遷宮している。
護国寺は明応三年(1494)炎上したが、長く再建されず、延宝六年(1678)になって仮殿および護国寺薬師堂が建造された。
ところで天皇行幸・臨時祭・放生会などの勅使の行路は、一一世紀中頃前には山崎路が用いられたが、以降は山崎橋の廃止とともに、京都から島羽の作り道を経て鳥羽離宮(跡地は現京都市伏見区)から水路淀(現京都市伏見区)へのコースが整備され利用されるようになっている(中右記、兵範記)。「長秋記」保延元年八月一四日条によると、鳥羽殿より桂戸居男が船(八幡迎船)を用意し、これに乗船して淀に着いている。後年足利義持は桂川を利用し嵯峨(現京都市右京区)から直接乗船して八幡に参詣したりしている(「看聞御記」応永二六年八月一一日条)。
〔近世以降〕
織田信長は天正七年(1579)山崎で当宮縁起を見、社殿修理の令を発したが、このとき木樋を唐金で鋳たものに変えたのは有名である。
豊臣秀吉は同一二年河内国星田庄(現大阪府交野市)内一二○石の御供米料を寄進、同一六年母の病平癒を祈して一万石を寄進、同一七年灯明料二二石、社務領六○石、田中家領一○○石、善法寺家領一四○石、善法律寺領一○○石などを寄進した。
同年病母の起請のため、社殿四方の回廊も再興。豊臣秀頼は慶長四年(1599)若宮殿再興、同六年狩尾(とがのお)殿、高良社造営、さらに同一一年修造費として一千石を下行し、旧社殿をことごとく取り除き新造している。
徳川家康は江戸開府前の慶長三年当宮に参詣しているが、以後幕府が江戸に置かれたこともあり、将軍の社参はなかった。祠官家田中流の東竹甲清の孫娘は家康側室となり尾張徳川家祖義直を産み、のち落飾して相応院と称した。ゆかりの正法寺は菩提所となり、徳川家の手厚い保護を受けて領内寺院中最も栄えた。
家康は、前代より当宮祠官家間で社務職を競望して度々相論があったことから、慶長五年五月社務職を廻職と定め、田中・善法寺・新善法寺・壇の四家が順位を守り廻職することにした。
さらに八幡宮領内八郷を神領として守護不入の地とし、他の村落のように領主・地頭・代官等の制御に属さず祭政ともに社務の掌握するところとした。
また年々江戸幕府に天下泰平の祈祷札を献上するのを例とし、江戸城白書院で将軍に謁見することとした。
また同年朱印地を次のごとく安堵している。田中一○○石、壇六○石、善法寺一四○石、新善法寺一○○石、そのほか山上衆合一千二六石余、神人衆合五八三石、八幡宮領内律宗寺院合三七○石、同禅宗寺院合二三○石、同浄土宗寺院合五五五石余で都合三千一七○石余であった。のちには総高六千四九八石余の朱印地を下している。
こののち元禄期(1688-1704)頃における朱印地は、七千三○○石余になっている。神領は検地免除の特典にあずかったから、実際はこれよりかなり多かったと思われる。ほかに当宮崇敬の大名からの寄進地も若干あり、社務・社僧等の買得私有地などもあり、さらに各坊ごとに大名の祈祷所として祈祷科を寄進されるなど、従前に比すべくもないが一応安定した経済運営がなされたと思われる。とくに豊蔵(ほうぞう)坊は幕府の祈祷所であったから、きわめて富裕で、朱印地三○○石、実際はその数倍の収入であったと思われる。
幕府の後援により元和四年(1618)社殿以下の修理がなされ、寛永八年(1631)からは大がかりな大修造が加えられ、同一一年遷宮式が行われた。さらに室町末以来廃絶していた放生会・臨時祭なども復活する。
また男山詣の船運も含め、淀川を利用する船は水運の神としての八幡に結びつく要素があり、享保一○年(1725)一月の淀二十石船由緒書に「神功皇后異国御退治之御船子ノ子孫ニ而、即八幡宮神人として只今ニ御神役相勤、八幡宮ニ付候船ニ而御座侯故、古ハ八幡社務之支配ニ而御座候由申伝候」とみえている。
文久三年(1863)四月、孝明天皇の攘夷祈願が通夜豊蔵坊でなされ、天皇の当宮社参は、勤皇派に大きなはずみを与え倒幕へと進んだ。
慶応四年(1868)三月の神仏分離令は、神仏習合の代表的存在であった当宮に大変動をもたらした。神号は八幡大菩薩を禁止し、八幡大神と改称され、神前に魚味を供すべき旨が命じられ、社僧は還俗妻帯し、諸坊は往時四八坊、当時一○坊ばかりあったが廃止され、山上の寺坊等も境内地から追放された。神仏分離がさらに廃仏毀釈に進み、当宮の多くの仏像・仏具・什器類も除去・売却・破棄された。
明治四年(1871)官幣大社に列せられ男山八幡宮と改称。大正七年(1918)もとに復して石清水八幡宮と称した。社領八千六○○石余も明冶四年残らず上地され、現在境内地のみとなり二万三千余坪。
現存する摂社には本宮遷座以前から座していた地主神という狩尾社のほか、水若宮(みずわかみや)社・若宮殿(わかみやでん)社・若宮社・高良神社・住吉社・石清水社・武内(たけうち)社がある。末社には、気比(けひ)社・貴船竜田(きぶねたつた)社・一童(いそら)社・広田・生田・長田社・水分(みくまり)社・三女(さんじょ)社・大扉(おおとびら)稲荷社がある。
〔文化財〕
現社殿のうち、寛永二年造営の本殿・外殿・幣殿・舞殿・楼門・東門・西門・回廊は重要文化財。永仁三年三月日の刻名のある石灯籠と鎌倉後期の五輪塔は重要文化財。当宮社家田中・菊大路(善法寺家が維新後改名)両家をはじめ諸家に伝わった石清水八幡宮文書(三五○巻)は重要文化財で、平安時代から江戸時代末期にわたる信仰・経済・法制・人事などを知りうる貴重な史料(現在東京大学史料編纂所寄託)。ほかに嘉禄三年(1227)五月一九日書写奥書のある「類衆国史」巻第一・第五(重要文化財)がある。
〔行事〕
一月一-七日修正会・同一八日大師供(行教忌)・同一九日心経会・同二三日比▲大神国忌、二月六日仲哀天皇忌・同上卯日御神楽・同一五日応神天皇国忌・同晦日修二月会、三月午日(三午には中の午日、二午には下の午日)臨時祭・同晦日卒都婆会、四月八日灌仏会・同一七日神功皇后国忌、六月二八日蓮華会・同晦日御祓御節、七月七日弥勒講・同一五日盂蘭盆講・同二六日大堂供、八月一五日放生会、九月晦日卒都婆会、一一月一三日慈恩大師講・同上卯日御神楽・同二四日天台大師供、一二月八日仏名会など(石清水八幡宮史)。以上仏事につながるものが多かった。
心経会は「満済准后日記」応永三三年一月二○日条に「彼法印〔融清〕申云、(中略)、此神事ハ自禁裏様并武家様御幣ヲ被進、洛中災難等ヲ払ルゝ表事ニテ、自宿院北門入、南門に出テ、於厄墓(ヤクツカ)此等御幣等ヲモ焼事也」とみえ、道饗祭として行われていたものが、いつの頃からか疫神から厄神にすり替えられ、当時は厄神会が行われていた。幕府より神馬を奉ったりしたことも散見する。
これが江戸時代頃には、厄除神となり厄年にあたる男女が厄難を逃れるため参詣する風を生じ、しかもそれが主として八幡神の職能のように考えられ、
石清水八幡宮はその中心的地位を占めて大変な賑いをみせる。
現在は青山祭と称して一月一八日に頓宮前庭に斎場を設けて神事が行われており、多数の参詣者で賑う。
臨時祭は寛平四年に始まるという賀茂社の臨時祭に準拠し、天慶五年、承平・天慶の乱平定の報賽に宣命・神宝および歌舞を調進し勅使を遣して行った。
その後天禄二年から毎年恒例とされ、天元元年からは三月中午日が祭日とされた。
南北朝時代には諸国動乱のため式日が延引・中止となることが多かった。
康暦元年、応永二三年、永享三年など天皇御代始の臨時祭が行われた。
応仁元年を最後に長く廃絶したが、文化一○年(1813)再興され、明治三年廃絶した。
放生会は宇佐宮より伝わったもので、養老四年(720)豊前守宇奴首男人が、宇佐大神を奉じて隼人征伐を行い多数を殺戮したので、毎年放生会を修するよう大神が託宣したことにより始められたという。当宮での放生会について「今昔物語集」巻一二(於石清水行放生会語)には、前世にこの国の帝王であった八幡大菩薩が、その殺生を償うため行うと記される。純粋な仏教儀礼であり、神前で最勝王経を講じ法会を行い行道をなし、諸鳥諸魚を放つなどの所作が行われた。貞観五年また一説に一八年から始まる。
当初の放生会がどの程度のものかわからないが、天慶二年山科藤尾(ふじお)寺(跡地は現滋賀県大津市)に新造の八幡宮は「凡厥霊験触事多瑞、仍遠近僧尼、貴賤男女、帰依如林、輻輳成市」という有様であったが、放生会も始められ「昼則迎伶人、尽音楽之妙曲、夜則請名僧、伝菩薩之戒、飲食禄物尽善尽美、布施供養如山如岳」(「本朝世紀」伺年八月一二日条)と盛況だったから、本宮の放生会がすこぶる寂寥になったという。他の神事仏事と異なり早くから衆庶に開かれた行事で信仰を集めていたと思われる。
その後天暦二年(948)宣命使が遣わされ勅祭とされ、天延二年からは朝廷の諸節会に準じ、雅楽寮によって舞楽が行われ、延久二年から賀茂祭に準拠して神幸を行幸の儀に準じ盛大に行われるようになった。文明一五年八月一五日を最後に中絶し、延宝七年再興された。明治元年中秋祭と改称、同一七年旧儀を復して男山祭と称し九月一五日に改め、大正七年以来石清水祭とし、現在に至る。
神楽のうち二月・一一月の上卯日に行われる恒例の初卯の神楽は、寛平年間敦実親王の始行という。応仁以前に絶えたが、延宝四年に復興、明治年間に中絶したが、大正六年再興し、現在に至る。三月の臨時祭の神楽は「権記」長保二年(1000)三月二九日条にみえ、「兵範記」保元三年三月二二日条に神楽次第が詳しく載る。このほか一二月の安居神楽・高良神楽などがあった。
武内社(たけうちしゃ)
摂社の一つで、本宮瑞垣内に鎮座し、「山城名勝志」に「在本宮内殿西北隅」とみえる。同書は「社記云」として「本社内右傍坐、是行教安宗先祖也、貞観二年六月十五日行教造神殿」と記す。同じく「石清水八幡宮末社記」に「号後見殿」、「帝王編年記」に「七十八年庚寅、大臣武内宿禰薨、(中略)今八幡武内明神是大臣也」などとみえる。すなわち行教・安宗ら紀氏の祖武内宿禰を祭祀する。八幡神の後見殿として本宮内殿に祀られた。
武内社の経所について、「男山考古録」は「空円修補末社堂塔記曰」として「武内経所、不断寿命経転読也、阿波院〔土御門天皇〕御時、社務祐清承元十〔二カ〕年八〔六カ〕月廿二〔三カ〕日被始之」と記す。現在の社は寛永二年(1634)将軍徳川家光造営のもの。
若宮(わかみや)
摂社の一つで、本宮の北に鎮座し、「山城名勝志」に「在本殿艮隅」とみえる。祭神仁徳天皇。「宮寺縁事抄」に「御垂跡御遷宮之最初奉祝歟」とみえて、貞観二年(860)本宮鎮座の時、行教が祭祀したという。
「石清水八幡宮末社記」に「竜宮御腹御誕生御童形也、一宇神殿二所御坐云々、天慶六癸卯三月十一日己卯両所大神奉授従五位下、仁徳与若宮御母各別勿論也、委見阿蘇本地記歟」とみえ、また「廿二社本縁」の「石清水事」には「若宮事、応神八幡御姫三人、男子一人坐寸、其中爾若宮登申寸和、男子仁天坐寸也、若宮四所登云和、姫宮三人共仁申寸登云恵利、若宮和仁徳天皇也、即平野大明神也」と記す。すなわち八幡神が応神天皇とされることにより、その若宮も応神の子仁徳天皇とその姉妹に比定されたものであろう。
本地仏は十一面観音とされる(宮寺縁事抄)。また同書に「今案云」として、「正像早過、末法爰来、五濁乱漫三毒熾盛也、(中略)故垂跡重顕垂跡、利生弥添利生、顕若宮権現、施難思化儀」とあって、八幡若宮は末法の世になって強力な援護者として再び垂跡して利生をもたらすものと考えられている。
「今物語」には、「八幡の袈裟御子」が若宮の祟りで一人娘の目がつぶれ、神前で「おく山にしをるしをりは誰がため身をかきわけてうめる子のため」という歌を何度も歌ったところ、その場で目があいたという話を載せる。また元久二年(1205)閏七月二一日付官宣旨に若宮巫女らが若宮に虹の立ったことを注進し、「公家御慎及恠所驚恐口舌病」のことを祈請することがみえる。
若宮は保延六年(1140)に本宮と同じく焼亡、さらに暦応元年(1338)にも兵火にかかり焼亡、永正五年(1508)にも焼亡した。この後天正七年(1579)一二月一六日若宮造営事始があって再造された。その後慶長年間(1596-1615)豊臣秀頼により修造された。寛永八年(1631)破損目録の再興を請う分の中には「若宮之楽屋并経女屋」がみえる。
当宮西方に経所があり「末社堂塔記」(「男山考古録」所引)に「若宮経所、法華不断経供僧十二口、近衛院御宇社務勝清、久寿元年十二月十六日被始之」とみえる。また建久四年(1193)一二月一一日に「拝殿並楽屋始造之」ともみえ、拝殿・楽屋・経所などが附属していたが、江戸時代にはなくなっていたようである。

ハムレットの水車小屋
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